昭和40年11月22日 夜の御理解



私は、世の中に一番怖いものは、蛙類が一番怖いんですけれども、嫌いなものは、私は、猫でした。その怖い、いわばその蛙も、もう、ひっくり返って、たまがろごつ怖くはなくなってきた。落ち着いてから、本気で眺めさせて頂いておるとき、どことはなしに、可愛らしげが(笑い)に、この頃なってきた。嫌いな猫も、この頃あんまり、好きとまではいかんけれども、側によってきても、足でけたくるようなことは無くなって来た。(笑い)以前は、もう、お広前へちょっとでも猫が出てきたらもう、それこそ大変なことでしたけれども、この頃は、よう、私の机の下にもぐりこんでおると、それをまあ、向こうさん押しやろうとも思わん、膝のほうへ、こう、寄ってきても、その、いやとも思わんように段々なってきた。それが、何ですね、やはりあの、神様が、ここへ差し向けられたというところからですね。
二、三日前、私、夜中に何遍も小便に起きますから、そうしたら丁度、三畳のところで、それこそ、毛布もなからなければ、着物もないところで、畳の上で、こう丸く縮まって寒そうにして寝ていますもん。もう、何か可愛らしくてたまらんもんですから、あの、私が、向こうのほうさん、やろうとするけれども、いかん。だから、私、着物の上から、こうこしてやったんですけれどもね。そういう時は、ある一つの、仏教的な、まあ、その考え方といったようなものが、私の心に、動くのかも知れませんですねえ。
「ほろほろと、鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う」というような心境なんですね。例えば、ふっと、それは、これは、私の先祖の誰彼からの生まれ変わりかも知れん。でなかったら、あまりにも、ここにその、私共に、寄り添いなつくのである。「ね」。もうこの頃私あれを、その、僕、僕と呼ぶんです。「ほうら、僕こんなとこおってから」とね。そう言わなければおられんのですね。「ね」。「ほら、お母さん、あれは、何か食べ物くれくれ言いよっとじゃないか」今日も、私が、そういうように言うてから、ご飯作って、そら家内がそうですたい、あの、なんかくれと言いよるけん、ご飯を作ってやりよりますと、こういうんです。それが、私には、分かるようになるのです。今までは、猫の泣き声なんかの中から、ご飯くれなんて、分かる、言いよるなんて事は分からしゅうなかったけれど、それが、この頃段々分かるようになった。「ね」。ましてやですよ、ましてや、親となり、子となり、夫婦となり、「ね」。師匠となり、弟子となりと例えば、言うような、縁というものは、こんなに深いことはない筈です。その、例えば、親子がです。争いよる。こんな、おかしな話はないです。「ね」。憎み合うと言ってるが、こんな筈はないです。血で血を洗うというようなことが、新聞紙上を見てみますと、本当に、その、親が子を傷つけたり、子が親を傷つけたりと言ったようなことがあるですけれども、本当に、宗教心がないということは、そんなことまでなってくる。いや、宗教心があってもです、「ね」。そうした、縁のあるものを、縁のあるものと気付かずに、今までの私の場合なんかは、それこそもう、嫌いなものだ、怖いものだと、ただ、一点張りでしたけれどもです。「ね」。最近では、それだけ、おかげ頂けるようになって、一番嫌いな猫ですら、可愛うなってきた。一番怖いその、蛙類がです、この頃、本当に度胸定めてから見れば、怖いものではない、可愛らしいものだというように段々なってきた。「ね」。私は、本当に、このお互い宗教する者、少なくとも自分の心の中に、宗教心を頂いて、それを育てていきよる者がですたい。もう、本当に縁の短いもの。「ね」。教祖の神様は、そこん所をです。家庭に不和の無きがもとと。私、先日、四、五日前でした。まあだ、徹さんがおるときでしたから、修行生の方達と、ここで一緒に、話し合いをする時に、中野さんに私が、中野さんここに来てから、あんた何かその、私共の家族の家庭のことで何か感じることはないかと、こう言うた。私は、あることを一つ期待しとったんです。「ね」。なるほどやっぱ、ここへ来てみたら、信心のありなさる家庭ですけん、違うと思いますとか何とか、そういうことを期待しとったんです。ところが、中野さんいわく、こう言われるんです。いいえ、もうどこも同じです。僕のうちでもあげなふう、こげな風です。もう、がんがん言うてもう、その、ろくそうにあって、けれども実は中身はよーかつばってん、こういう風に、私、それを聞いてからほんに、いわゆる家庭の上に、がっかり致しましたですね。こらあ、本当に、家庭のものがです、なるほど、信心のある者の家庭としてのです、宗教心を育てて行きよる者の家庭としてですたい。これは、本気で、宗教心を、もう少し育てなければいけないなと。私は、実はです、もう私共は、とっても、ろくそうにして、喧しゅう言うて、まあ、場合には喧嘩口論しよりますけれども、その、中身の信心どもは、こたえんごたるものば持っとりますけんで、ばっかりだったです。私も、思うとったです。ところがその、中野さんのそのことを聞いてから、私は、これはいつか家庭、家族中のものに話そうと思いよったけれど、今晩の御理解によって、それは崩れてきたんですけれども、ま、今晩の御理解に、その時のことを私は、忘れ、何時までもこの残るです。「ね」。例えば、百日間も椛目におってから、なるほど信心のありなさる家庭だなあというものを、感じれさせきらなかったという事ですよ。問題は。「ね」。いわゆる、信心のないいわば、あっても薄い中野さんの家庭と、同じだというところにです。「ね」、それは、私は、中野さんを、そげな酷評というか、そげな見方があるもんかと、言うんじゃないですよ。「ね」。中野さんの信心の目を持ってですたい。「ね」。やはり、仲の良かごつありなさるけれども、やっぱり言葉も荒かったり、時々喧嘩、その口喧嘩のような争いごとがあったり、けれども、その中身というものは、確かに私のほうでおかげ頂いているんですけれどもです。それだけではいけない。なるほど、宗教心を育てておる。例えば、ほんならその、横にいてすらです、私は、以前は嫌いだったから、もう、手ででも扱うとはもう、嫌じゃった。はあ、その猫はです。あれは、男猫ですから、僕、僕とこう、親しみを持って呼ぶのです。それに、汚い言葉を使いよるなんて、こんなお話はないですよ。まして、椛目の御広前で、人が助かって行きよる場にあるところの、椛目の、ここの大坪の家庭の中にです。私は、今まであんまり、本当うちは、ろくそなかことは、ろくそなかばってん。貴方こなたなんか言いよると、返ってこう、ほんなごつじゃ無いように思いよった。けれども、これは、教祖の神様がです、家族のものを貴方こなたと呼んで、仲良うして行けと仰っておられる事が、よう分かるような気がする。「ね」。それこそ、本当に、例えばその、猫でも、慕うて自分の家庭に縁があったらです。私は、仏教的な見方でするならば、この猫も、ひょっとすれば、家の先祖の生まれ代わりかも知れん。そげなところで、寒かろ、冷たかろと思うたら、やはり、毛布の一枚も掛けてやらなければおられないと。それがなにぞや。「ね」。親であり、子であり、夫婦のものがです、いわば、荒い言葉を使いあうといたようなことあっても、もう、本当に、宗教心のあるとは言えないと私は思う。もう、どげな修行したっちゃ同じ事ですよ。そういうような風に、形に表れてくるなら。又、信心ならここで修行しよるのに、そういうふうに、もし家庭が生まれるとするならば、もう、これは、私のほうの家庭、もう、本当に第一歩からやり直さなければいけないなということを、私はその時痛感したんですよ。「ね」。ましてや、たまにどん来た者が、例えば、ほんなら私共で良く、うー、私と家内といったような、まあ、親先生も本当に、奥さんには、もちっと、どうかもっとらっと言いなさりようはないですかち、言うて、先生方から注意を受けるんですけれども、もう、それはもう、言うならば、まあ、親愛の情の表れるぐらいなその、いうてですね、言いよりましたけれども、あれはいけない。宗教心を育てて行きよる、信心を頂いて行きよる者の、言葉遣いやら態度ではない。確かに一つ、貴方こなたから、やり直さなければいけない。「ね」。もう、口は悪かばってん、心が良―か。そげなことじゃもう、宗教頂いておるもんじゃ無か。「ね」。私が、只今申しますようにです。「ね」。本当に、親子ですら、先祖の生まれ代わりかも知れんというたような、見方、思い方、ましてや、いわば、親といわれ、子といわれ、家内と呼ばれ、主人と呼ばれ、そしてもう、こげな、深い縁は無いですよ。それが、例えばもう、なにか、召し使いば使うようにしてです、例えば、私が家内なら家内をまあ、酷使するとするならばです。これは、私は、始めからやり直さなければいけないということを、私自身、感じたんですね。皆さん本当に、宗教を頂く、宗教心を本当に育てて行ってです、宗教によって助かりを求めて行きよるというものなら、もう、すべからく、そういう気持ちにならなければ駄目です。これは、私が、今頃気付いちゃ、本当に、お粗末ですけれどもです、「ね」。私自身それを思うです。「ね」。例えば、どんなに立派な信心が出来よっても、しよってもです、そういう時の一駒をもう、見たり、覗いたりしたらですね、もう、本当に、百年の恋も一遍に冷めますよ。私は特に、家の家内やら豊美たちにそれを感じます。本当にもう、ああいう時には、宗教心というものは全然無いのだろうかと、良く思うことがあります。慎みが無い。ほんとにもう。ほんとに情けない。神様のお賄いを頂いておる者としてから、ほんとにもう、唾棄したい、軽蔑したいごたるけれども、しかしその元をとっとる私自身がです、実際は出来てないのだから、やはり家内、子供が出けとらんはずだと、こう思う。改めて、私はそれを思うです。
先ほど、御祈念に掛からせて頂く前に、中野さんが、先生、私の座右の命としてです、例えば、私の向かっている机の前に、これは、自分のここに掛けときたい、そのものをです、何か一筆書いて、貼っておきたいから、神様に頂いて下さいと言うお届けがあった。神様にずーっと、御願いさせて頂きましたらですね、頂きますことが、「一切修行、何やったかね、んん、渾然と湧く力」でございました。「ね」。一切が修行、渾然と湧く力と。修行させて頂くでもです。その、渾然と湧く喜びとか、渾然と湧く元気な心を、頂かせて頂くための修行ですよ。「ね」。一切が修行です。一切が私一人のために下さるものなんだと、いう頂き方。それには、例えば、そのぐうぐう言うてこらえて受けたんじゃいかんから、先ず、願わなければならんことは、私の心の中に、渾然として沸く喜びを頂かせてくださいと、渾然として、下から湧き上がるような元気な心を頂かせてくださいと。例えばです、ただ努めておってから、ああ、腹かいちゃならん、腹かいちゃならん。ろくそな言葉を使こうちゃならん、ろくそな(笑い)それではです、やっぱ駄目です。それはもう、上辺だけです。「ね」。ですから、そういうことをです、渾然と湧く力を持って、もう、その、喜びに溶かしてしまうような、力を願えということ。一切が、お前の前に現れてくる一切が、修行だと頂けと。
一切修行、渾然と湧く力。「ね」。そこんところを私どもが、願うことがです、宗教心の、おー、いよいよ有り難い。いわば、宗教によって有り難いという心を、養わせて頂くところの、信心。「ね」。私は、御道の信心はそこにある。なるほど教祖の神様が、家庭に不和の無きが元ということは、私の心の中に不和のない心が元である。「ね」。態度にでも、言葉にでも、本当に、いわゆる、見かけだけではない、心の底から、貴方こなたと呼ばれるようなです、いわば、間柄になって行きたいと。まして、親子と呼ばれ、まして姉妹と呼ばれ、まして、親先生であり、信奉者であり、いわゆる、師匠であり、弟子であるという関係を作っていく上において、「ね」。それを、私のほうに飼われておるいわばその、猫の上にもです、私が、そういう一つの情を持って、猫に感じられるようなものをです、まして、人間。まして親、まして子供、まして私の弟子、まして私の師匠に対してです。「ね」。貴方こなたというようなものがです、内容として出来なければいけないということ。先ず、信心はここから、「ね」。信心は、先ず、家庭に不和の無きが元なりと、こう仰る。わたくしは、今まで自分自身の家族のことにおいて、買いかぶっておった。もう、私共は、ろくそなかっですけん。私は、ここ、二、三日言うておることです。丁度三時のおやつの時間におりますときに、おやつの時間ですね、もう、机の上ば、もう一杯こう、飯台の上をうっ散らかしてから、頂きよるから、折角頂くならね、もう少し綺麗に片付けておいて、「ね」。少し雰囲気も一緒にしてから味わえるようにしてから、頂かんかと、こう、私が、二、三日前にそれを申します。「ね」。そういう一つの、雰囲気の中からですね、私は、やはりそういいう態度とか、言葉やらも生まれては来ないと。実意言葉、実意態度、実意な心とかと。「ね」。いかに壁に貼っておったとて、何になるか。如何に、どんな修行しよったとて何になるかと。「ね」。そういう心を養わせて頂く為に、修行であり、信心であり、ということをですね、これは、私の家庭の上にです。中野さんが、三、四日前に、私はその評を、ある意味では、ほんとに、又そこのところを、うぬぼれておるんだから、信心何年とされている家庭ですから違いますと、というような言葉を期待しておったら、暗に、先生、どこでも同じ、私共といっちょん変わりませんとこう。中野さんの家と、いっちょん変わらんという。あそこは、なるほど、あの、参って見える方達からも、ざっくばらんな方達のごたるふうでですね、それだけやっぱ、やりよりなさることもあるらしい。けれども後は、すっとしとる。それではいけんて、信心は。いやあ、中野さんの家庭と同じだと。これは、まあ、一歩からやり直さにゃいかん。中野さんの家庭自身も一歩からやり直さなければ、いけんようにです。私の家庭も、これは、なおさらのことだ。中野さんの百日間、椛目の家庭の中におって、映じたものがそれであった。「ね」。もう、改めて一つ、ま、信心のおかげを頂いておるモデルケースとして、御広前ではです、ただ、おかげだけは頂いておってもです。「ね」。なるほど、ああいう家庭の中から、あれが生まれてくるんだというような、おかげを家庭の上にいただかにゃならんなと、まあ、こりゃ、私の家庭のことを申しましたが、皆さんの家庭においても、同じこと。信心のある家庭として、「ね」。あんまり、ろくそないことは無かか。あんまり態度、言葉が実意を欠いておらんか。「ね」、飼われておる例えば、それは、猫一匹の上にでもです。私は、本当に宗教心と言うものを持ってするならです。「ね」。ひょっとすれば、これが、先祖の、いわば、誰彼の生まれ代わりかも知れん。とても、足でどん、猫をほらったりなんかせんとはいわれせん。ほら、僕、僕、あっち行かじゃこてと、例えば言うようなです。雰囲気の中に私は、家庭の和というものは、育てられて行くとこう思うんですよね。どうぞおかげ頂かれて下さい。